昭和51年12月30日 朝の御理解



 御理解 第16節
 「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」

 中山亀太郎という先生の言葉の中に「運命を愛し運命を生かす」と言う言葉がありますよね。運命を愛する。自分のような不幸せな者があるだろうかという考え方は、もういよいよ運命を愛するどころか、殺してしまう方だと思うですね。どういう例えば逆境の中にあっても、不幸と思われる中にあっても、それを生かす術、それを生かすための精進をする人。そこに運命を生かす、いやむしろその逆境であったり、まぁ不幸せであると言う事が、却ってその人を幸せにしていく、そう言う事でしょうか。
 教祖様がこれを古風な表現で教えておられます。無常の風は時を嫌わぬと言うが、此の方金光大神の道は、無常の風に時を嫌わすと仰る。勿論金光大神取次ぎの働きを受けて、おかげを受けて行くと言う事ですけれども。お取次ぎを受けておかげを受けるというのではなくて、お取次ぎを受けて信心を頂いていくという生き方からでないと、運命を変えていくと言う様な、無常の風を向こうに追い返す程しの力になって来ないと思う。
 昨日敬親会でしたが、丁度敬親会に入ろうとしておる所へ、福岡から夫婦で初めて奥さんは先日一回参って参りました。初めて参ってきた。昨日本人初めて会わせて頂いたんですけれども、戎浦さんのまぁお導きでと言うよりも、お取次ぎを頂かれてそしておかげの泉を持って行って、そして信心の有り難い事を話してから、それがまぁ話を聞いてみると、やはり大変な病気らしいですね。医者は現代の医学ではそのどういう、まだその分からないそうです。もうとにかくまぁそれはまぁ大変な苦しみだそうです。
 ですからその苦しみをもう、一時押さえするためにもう一年ですかね。いわゆるそれを長くしておったら、本当にモルヒネ患者になってしまわなければならんような、ひどい注射を日に二回も打たなきゃならんそうです。それがあのおかげの泉を頂かれて、それを読まれたら大変感動された。それであの扉に少なくとも十回は読めと書いてあったんです。書いてありますですね。だから明け方までもう感動一つ読み続けたち言う。同じ本を毎日ずうっと。明くる日からその注射を打たんで済むようになった。
 もうそれこそ大変な喜びだっただろうと思うんです。出てこんけん分からん。そして十五日、昨日お取次ぎされてから十五日です。十五日間おかげで全然注射を打たんで済むようになりご飯がいけるようになり、顔色が良くなりもう爪の色まで変わってしもうた。ところが十五日目にまた痛み出した。それであわてて初めて嫁さんがお願いに出て来ました。昨日はそのお願いに出てきて貰うたその日から、痛まんようになった。
 そして昨日でちょうどお願いをして十日になって痛まんから、もうこらいよいよおかげを頂いたと言うて、今日本人の主人も連れて昨日御礼参拝しております。これなんかはお取次ぎを頂いて、おかげを頂いたという事ですけれども、その中にねもう私は本当に深い深い、ご神愛というかご深慮というものを感じさせて頂きます。昨日もちょうど敬親会のほうに出ろうとしておる時でしたから、あちらでまるきりこの人の為にお話させて頂きよるのだろうかと思うようなお話を、一生懸命その夫婦に。
 だけど敬親会の方達も今日はもう本当に長々と、親先生のお話を頂いたと言うて、分かられるんですねぇ、お年寄りの方達がみんな。昨日は寒かったし雪降りでしたから、何時もの半分ぐらいしか集まっておりませんでしたけれども、今ここの修行生の方達が沢山おりますから、もう是非一緒にと言うて参加しました。まぁ半分が敬親会半分が、うちの修行生と言った様なようでしたから、そりけんね皆んなもあそこに、向こうの方に並んでおります若い人達はね。
 みんな金光様の先生の卵ばっかりです。金光様の先生の資格を頂いて帰ってきた人、まだ学院で勉強中の人、そすと来年学院に入ろうと言う人達ばっかりなんです。あの若いいわば美空でね。本当に一生涯を神様に捧げた人達なんです。それもただ難儀な人が助かることの為にお役に立ちたいの一念があぁして、若い人達が本気で一生懸命信心の稽古をしてるんですよと言ったら、その本人が大変感動しましたですね。
 まぁ信心と言うのは、なんという素晴らしい事だろうかと、まぁ思われた事だろうとこう思います。そしてまぁ懇々とそれこそ、まぁ言うならば合楽理念という様な難しい言葉を使わずに、まぁいろいろ話を聞いて。昨日の御理解の中にも三宅先生のお言葉の中に、先ず人をつくる事だと。どういう人をつくるかというとね、物でも金でも仕事でも、向こうから集まって来る様な人物になる事だと言っておられる。だから信心はどこまでも、人物本位なんだ。
 昨日教報が参りましたが、教報に今教祖様の御教えが沢山まだ埋もれておるのが、沢山あるわけですね発表されてない。それが少しずつ載って来るのですけれども、昨日の教報にも、そういうのが出ておりました。その中にです例えそのコレラですね。いわばまぁその時分はとんころりと言う、かかったらすぐ死ぬからね。たとえコレラのような怖い病気でも恐れる事は要らんぞと。自分に悪い事をしていなければ怖くはない。向こうから警察官の人がやってくる。こちらに悪い事をしてなかったら平気であろうがと。
 だから悪い事さえしてなければ、いうならば信心の道に叶うてさえおれば、真の信心を目指してさえおれば、コレラでも恐れる事はないぞという、意味の御教えをしておられます。だからとにかく信心とは人物を作ることなんです。言うならば真の人を目指す事なんです。そこに私はその内容が運命を生かしていく生き方。いわば運命を愛する生き方。それを繰り返しね。三代金光様のお言葉の中にありますように、信心に一番大切な事は辛抱ですと仰っておられます。
 だからこの辛抱の出来ない人が、辛抱の出来る修行をさせて頂かれた時に、初めて信心が身に付いて来るとです。信心が身に付かなければ駄目です。頭に付いただけでは。いうなら信心が血に肉にならなければ駄目です。どんなに偉そうな事を言っても、信心が身につかなければ駄目です。そこにはそんならだらしのない人でも、いわゆる先日の御理解にある、自堕落な人でも、自他楽のおかげが受けられる。自他共に助かるほどしの、徳が受けられる。
 ところが中々私共の場合はね。一日なら一日を振り返ってみて、日頃頂いておる教えを鏡に立ててみるとです。あそこもお粗末ここもご無礼、ここは全然辛抱が足りなかったと言う様な事が沢山ございます。そこでなら私達はもう救われようがないと言う様な感じさえする事がありますけれども、そこには信心の言うならば何と言うでしょうかね、詫びれば許してやりたいのが親心じゃと言う様な、生き方があると言う事なんです。
 昨日上野先生がここへお届けに出てまいりました。今朝方からお夢を頂いて。親先生から色紙を書いて頂いたけれども、それが何と書いて頂いたか分からんという訳なんです。そしたら私が丁度その時に頂いたから、そん時にちょっとこれに控えさせて頂いておった事が、その詫びれば許してやりたいのが、親心と言う事を頂いてかけの字ですね、割ったり掛けたりというかけの字ですそのかけの字です。こうやってかけの字ね。そのかけの字がね、そのこうこうやって真っ直ぐな所を頂いたんですこげな風に。
 良く文章を書いてから、すっとこう棒を引くでしょう。例えばこれにもありますよね。人が、金が、仕事が向こうから集まって来る様な自分にならなければならぬ。それにはとこう棒が引いてある。それにはね真実に生き抜く事だと言う。それにはと言う様な時にこう棒を引きましょう。ここに書いてあるね。そのかけの字がね、それにはっとこうね。なるほど、私共は日々もう本当に、御詫びに徹しておかげを受けていると言う説があるくらいですから。
 本当に教えを私はあの幾ら今朝のお言葉から言うと、悪い事しておらなければとこう仰るけども、私だん悪い事しとらんけん、信心なせんでん良かといった様な事を、平気でいう人がありますよね、信心のない人は。なら果たして天地のそういう理に基づいた生き方をしておる人が、ほんなら本当にあるだろうか。信心を深く分かれば分かるほど、お詫びをしなければおられないことばっかり、そこに信心させて頂く者が何とはなしにね、謙虚な人柄というものが出来る訳です。
 ですから厳密に自分というものを見極めた時に、人ども責めたり人の足元どん見とって、自分というものが分かるはずはないです。そこで自分が分かって来ると詫びねばならないことの、あまりにも多いのに驚くくらいなんです。だからそこを謙虚に詫びてかけの字という事は、いけないという訳でしょうねいけない。けれどもそれを詫びる信心お詫びの信心、その詫びる心になると神様が許してやりたいのが親心なんです。だからそれには次のおかげの頂けれる手掛かりが出来る訳です。
 おかげの頂けれる手掛かりがね。けれども私のような悪い事ばっかりしよる者をと思う心には、もうおかげが向こうの方から逃げて行くという感じがします。言うならば悪い事をしとる。さぁもう病気が流行ったらもう自分に移りはせんじゃろうかという様な気がする。ところが日々例えば精進させて頂くと同時に、詫びに徹した生き方というものを身に付けていく時に、日々が許されて今日があるんだと。許されて今日があるんだと分からせて貰う時、思わせて頂く時にです。
 いうならば不安というものがなくなってくる。心配がなくなってくる。昨日福岡から御礼に出てまいられた方達なんかの場合はです。言うならばおかげを頂く信心。けれどもおかげを頂きどんなにシャープなおかげを頂いてもね、本当に安心が出来るいわゆるリラックス出来なかったら、それはただおかげだけであります。そういうおかげを頂くその中身がです、そういう難儀な問題を通して信心が分かるところから安心が生まれる。リラックスも出来る。その安心がまた次のおかげを頂いていけれる元になるのです。
 お願いをしたもうその翌日から、確かにおかげの泉はね。読んだだけでもおかげ頂くですね。どうにも出来ないそういう恐ろしい注射を続けてしなければならないような痛みがです。そのおかげの泉を読んだ感動が、明くる日から十五日間、全然痛まなかったち言うのですから。そこにそういうおかげを通して、信心を分からせたいと言う願いがです。十五日目にまた痛み出した。それでまた注射をした。その後にすぐ嫁さんがお参りをしてきた。そして初めて参ってきたんです。
 そして信心とはこういうものだよと分からせて、まぁ分かったか分からんか知らんけれども、御理解頂いて帰ってそのことを主人に伝えたその日からまた止まった。それから今度は十日間もう十日間痛まんから、こらもういよいよおかげ頂いたとして、主人と二人で御礼参拝をしてきた。御礼参拝をしてきたらもう普通ここでは、あんなに長々と御理解なんか説けない。敬親会の方達のつもりで一生懸命話しよるけれども、実はこの人達夫婦が頂く。そして大変いわば信心の感動を得て受けて帰った。
 如何に神様がねおかげを頂かせて、主人が信心を分からせたいと言う時には、それこそ痛い思いをさせてからでも、分からせようとするご深慮が感じられるでしょうが皆さん。こらだからこれはね、そういうまぁ見本のようなものですからね。言うならば十五日と十日じゃけんたった一月足らずの間に信心とはという事が、分かる感じですけれども。お互い永年信心させて頂いておる者はです、痛いとか苦しいとかと言う時にです。
 如何にここにご神慮を分かってくれよと言う、神様の願いと言うものがあるかという事を、お互い悟らせて貰うてね、そこを私共が分かり頂かせて頂く時にです次の信心への飛躍と同時に、詫びて詫びて、詫びぬかなければならない自分に気が付かせて頂いて、始めてそういう信心からですね、運命を生かす事の出来れるはたらきが生まれてくると思います。ただそん時におかげを頂い、と言う様な事ではない。
 その二十五日間のおかげの中に、神様のお心を感じとらせて頂くわけですけれども、なら私共の上にそれを頂いて、私共はいうなら頂けない筈のおかげが頂けれる。これは皆さんが言う事でしょうが。合楽で例えば五年、十年と信心を続けておられる方達が、みんな言う事はむしろ私に信心がなかったら、今頃はどう言う事になっとっただろうかと思いますと。皆さんも一人ひとりそれが言えれるです。いやそう実感しておられるでしょうが。既に皆さんの運命というものが、有り難い方へ方向を向けておると言う事なんです。
 もし信心がなかったら、もうあなた方の一家の運命というのは留まっておる。いやどうなっておったか分からんという程しのおかげを受けておる事実をですね、ふんまえていよいよその有り難い運命がね、有り難いほうへ展開してくるおかげを頂くところに、もう一押し徹しなければいけないという事を感じます。今日は雨が降るから風が吹くから、今日は寒かけんで雪が降るけんでと言うぐらいな事では、私は徹すると言う事は言えないと思う。信心はね徹する事です。
 そうですよ無常の風を向こうに押し返す程しの事なのですから。そこからいうなら人やら、物やら、私はそこんところを人間の幸福の条件の全てが、向こうの方からやってくる程しのおかげを頂いて行こうと言うのですから。ただ日まさり、月まさり、年まさりのおかげではなくて、それこそ正義先生じゃないけれども、今日を境に代まさりのおかげの頂けれる信心を頂きたいと願っておられるようにね。言うならばお徳の頂けれる、真の信心を本気で頂こうとする姿勢。
 そこには徹すると言うものが伴わなかったら頂けません。折角その運命が変わったと言うほどしの方向に向いて、ほんなら合楽理念と言う事が、完璧の域に入ったと言われてもです、そこに入っただけでは駄目なんです。完璧へ向って進んでいかなければ駄目なんです。もう徹すると言う事は素晴らしいです。徹すると言う事はね。それこそやっぱり線香の一本の火でも、紙の裏表を突き通す事が出来るでしょう。手に触ったら熱っと言うものがあるでしょう。それなんです徹すると言う事は。
 これには神様が動きなさらんはずがない。どんなに万匹の蛍を持ってきてもです、ただぼんやりと赤かと、赤なってと言うだけで、ほんなら紙の裏表一つ貫くことは出来んでしょうが。何十年信心しとりますという信心が、ぼやっとした信心では、私は今日皆さんに聞いて頂くようなね、本当に運命を変えて行けれる程しのおかげには繋がって来ない。そん時そん時にお取次ぎを頂いて、それこそ昨日の福岡のその方じゃないけれども、そういうおかげを頂いたに致しましてもご深慮を悟ろうとしない。
 あぁこの神様ちゃ不思議なお方じゃある。あれがどうでしょう十五日間、それこそそんなひどい注射でも薬でもせんで済んでおかげを頂いたら。もうそのまま参って来ないかも知れん。いや退院した時に御礼に出てくるなら、もう出て来たで終わってしまったかも知れない。けれども十五日の日にまた痛み出した。また注射をしなければならなかった。そん時に素人ながらもふっと気付いてまたお願いに出てきた。出てきたらその日からまた止まって十日間。はぁこら信心ちゃこりゃやっぱりお参りせにゃいかん。
 お話いただかにゃいかん。そしてお話を頂いていくうちに、その事が良うなるとか、治るとかと言う事だけが信心ではなくてと。昨日私が長い間その信心を語らせて頂いて、本当に例えばあの若い美空で、自分の生涯を神様に捧げて、人が助かる事の為にね、精進しておられる人達のおる姿に触れて、感動するような内容がもう心に育っておる。ほうら自分どんが助かりたい、おかげ頂きたいと言った様な事じゃ出来んぞ。
 自分が助かったなら、また次の人が助かって行かれるようなあり方にも、おかげも頂かねばならないぞという様なものがそこから育って来る訳です。そこを頂いてくれよ分かってくれよと言うのがご神慮なのですから。どうぞ私共の生き方の上に、本当に安心が生まれてくる事の為に、立派な人物にならなきゃならんという事は勿論ですけれども。どんな立派な人物であっても、一日を教えの鏡を前に立ててみると。ほんなら井上先生なら井上先生あたりが、もうその事に専念してます。
 取次者としての修行に一生懸命取り組んでおります。もうだから井上先生達の心の中には、もうそんな汚い心やらお詫びせんで良かこつやらは、とてもなかろうと思うごとあるですけれども、実際ほんなら神様は詫びれ詫びれさぁ詫びれば許してやりたいのが親心と教えておられる。そこで頂いてもう先生本当に神様は見通しでございます。これは井上先生の、その御理解を頂いてからの言葉なんです。神様は見通しです本当に詫びるより他にはない。そこにはそれからというそれからの信心の手掛かりが出来てくる。
 そういう生き方。だから信心ちゃ難しい事じゃないでしょうがね。とても私どんがごたるまぁ言うなら悪かこつばっかりしとるもんな、もう信心神様ち手を合わせたっちゃ難しかろうという様な事はないという事ですね。それはなぜかと親だから親神様だから詫びれば許してやる。神様の方がおかげ頂かせようごとして応えんでおりなさる。神様の方が許してやりとうて応えんでござる神様。そのご神慮を都度都度に悟らせて頂いて、本当に有難い信心の世界に住まわせて頂いて、おかげを頂かなければ出来ません。
 昨日佐田のお婆ちゃんが、何時も会計をしておられて、必ずあのあちらからお茶請けの饅頭を買うて来なさるとが、昨日はおられんから今日は饅頭がなかばいのと思いよったら饅頭が出ておりました。誰が持って来たかち誰ん知らんですもん。それから誰が持って来たのち、こら久留米の饅頭じゃがと私が言うたら、いや恵介君が持ってきた。そんならそんな事を早う言わじゃこて、こげ何遍でん聞きよっところにという様な事から、佐田のお婆ちゃんの話を、みんなに聞いていただいた。
 みんなも一生懸命お祈り添えがあって心配しよりなさいます。もうそれこそ大変なおかげを頂よりなさるげなよと。もう本当言うたらそれこそお医者さんがもう、びっくりするほどしの胃癌である事が分かった。ところが食物は美味しくて痛みも痒みもないもんだから、こらいかがなるじゃろうかと思うくらいであった。先日からもう日本一と言う様な素晴らしい先生も見えてから、ただもう不思議不思議と頭をひねりなさるばっかりである。そこでまた田中さんの弟さんが、九大でお医者さんをなさっておられますから。
 見えてそしてそこの先生と相談をして、胃カメラでもという事になったけれども、とても今のこの状態に胃カメラなんかと言うような事じゃなくて、何かあの腹膜ですねかどっからか水を取って、あの調べる方法があるそうです。そしてまぁ採って調べたところが、水が出てこんならんとが、もう血ばっかりだったそうです。もうそれでもう癌がねそこまでも、こうあの蔓延しておるわけですね。転移しておる訳です。それでもういよいよたまがってしもうてから、どうしてこげなその状態でおれるだろうかと。
 ここにいうなら信心の不思議さ不可思議さを、もうそのお医者さん達がもう感じておられる訳です。そしてお婆ちゃんが休まれる時には、もう本当にこげな極楽はなかち。もう先日からもお便所にも、まぁ手伝って貰うて下で行かれるような、それから頭の髪まで洗われた。だけんそん時に牡丹餅か何か持ってきたら、その牡丹餅も美味しゅう美味しゅうて頂かれた。
 そして病院に着かれる時にもうこげな極楽はなか恵美子さん、このままもし目が覚めん時には、親先生に宜しゅう申し上げてくれんのと。もう眠るたんびにそれを言われるそうです。そして目が覚めた時の感動と言うたらですね。親先生まぁだ生きとりましたち言うて、御礼を言われるそうです。もうそれを私が話しましたら敬親会の方達が、もうみんな感動しましてね。
 本当もう毎日毎日目が覚めるちいうこつは、こげん有難かことちいう様な事をこらもう実感ですからね。もういうなら遺言のような、そのもう私はこのまま眠って目が覚めん時にはもう本当に、こんな極楽でおかげ頂くのだから、親先生に御礼を申し上げてくれち。ところが目が覚めた時にはいわゆる、まぁだおかげでお生かしのおかげを頂いておったと言うて喜ばれるその感動がね。
 本当に信心ちゃもう本当に、まぁそういうおかげも頂かれる。信心の徳ちゃ本当に素晴らしい。それは常日頃の佐田さん達のご信心を見れば、成程と合点が行きますよね。ただその医者が悪か方じゃなくてね、医者が頭ひねる時には、こらもう難しかち言うけどあちらは反対です。この人達はもう了見に及ばんち言うて、いうなら頭をひねる。いうならば無常の風をもうその都度都度に、向こうに追いやっておられるような感じが致しますでしょうがね。そういう力があの世に持って行かれない筈はないという事ですよね。
   どうぞ。